神戸港は平安時代「大輪田泊」と呼ばれ 現在の兵庫区南部で南東からの風や波により船に被害を与えることが多かった為、港の前面に人工島を築いた。
と、神戸・兵庫の新川沿いにある キャナルプロムナードの案内板に書かれていた。
これは 平清盛が立て直したそうで日本で初めて経ヶ島という人工島を築造したという。平安時代だから そりゃぁ大変だっただろう。
人柱伝説が生まれるほどの難工事だったようで、完成目前に2度も流され 30人の人柱を沈めるようにと占い師に言われたが 清盛の侍童で まだ17歳という松王が身代わりになることを申し出たという。
応保元年(1161)7月13日、僧の読経のうちに松王は海底に沈み築島造営は完成した。
左の写真は 松王の菩薩を永く弔うため来迎寺(築島寺)を建立し 松王小児入海跡と書かれた碑と供養塔が建てられている。
右の写真は歴史館に展示中の松王と共に沈められた一切経を書写した石と言われている。
今日の神戸港の繁栄につながる この工事は薬仙寺・清盛塚近辺だろうといわれている。
江戸時代までの兵庫津は政治・経済・文化の中心地だったが 幕末の開港を境に都心の機能は東へ移った。
この石は 石椋(いわくら=石をつみあげた波よけの土台)に使われていたと考えられている。
平家物語といえば琵琶の名手・平経正が浮かぶ。大きな琵琶塚の碑が建てられていた。明治35年に彫られたものらしいが 力強い迫力のある字は素晴らしい。
その入り口付近の道には こんな琵琶の絵
(写真左下に貼り付け)が描かれた表示板もあった。
詳しくは
ここに
【
追記】
kattyanから ご質問いただいたので追記致します。
「津」は
金文では ←このように書きますが この字の旁の部分は「聿」で、筆、律、建、健、鍵などにも付いています。この聿は真っ直ぐ立てて持つ形で きちんと取り決めること(律)やきちんと揃えて しっかり建てる(建)、背筋をぴんと伸ばして立つ(丈夫なこと・健)、錠前の穴に真っ直ぐ立てる金具(鍵)などに使われています。
「津」は 元々「津」に「彡・サン」をつけた字で「聿+彡・しん」が音符の形声文字なのです。この部分は入れ墨をする時に使う針で 血の混じった液が染み出る形なんだそうです。体内からしたたる液体を暗示した記号素で水滴がしたたり落ちることを言います。
興味津々のように 興味が次々とわいて つきないことを言います。こんなことで如何でしょうか?
先日、ブログを止めようかと書いたことで 余計なご心配をかけ失礼しました。
色々家庭の事情もあり お出かけが儘ならず近場だけでは中々ネタもなく如何したものかと思っていましたが 励ましていただく有難い皆さんがいらっしゃることは決して忘れません。
支えていただいていること実感いたしました。深謝です。細々ではありますが頑張りますので よろしくお願い致します。
有難うございました。