生まれ育ち 生活をしている場であっても知らない事は多いけれど 大阪、奈良の次に知っているつもりだった京都。
余りにも見る所が多い京都ではあるが 何気なく歩いていると気が付かない事だらけだ。
三條大橋は 何度渡っただろうか?京阪電車の三条駅から この橋を渡らず東へ行くことの方が多いとは言え 渡る事もあるのに見ていないものだなぁ。
この橋は 豊臣秀吉の命により 増田(ました)長盛が天正18年(1590)に日本で初めて石柱橋として架けられたものだという。
ちゃんと説明板があるのに読んだこともなかった。
昨2日 OB会から「龍馬と歩く京のまち」に参加し説明を受けてはじめて知った。
この高欄に付けられた擬宝珠には
洛陽三條 之柱至後
代化度柱 還人盤石
之磯入地 五尋切石
之柱六十 三本蓋於
日城石柱 橋濫觸乎
洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度(けど)とせしむるもの也、磐(ばん)石の礎は地に入ること五尋(ひろ)、切石柱は六十三本也・・・
5尋とは 可なり深くまで入っているものだ。More ↓ に「尋」に付いて追記した。
→ こちらの碑には天正十八年庚寅正月日と書かれている。
旧三条大橋の石柱は天正十七年津国御影(現、神戸市東灘区)を橋脚に使われたものだと 説明されている。→
三条大橋西側から二つ目の南北擬宝珠に刀疵がある。
これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見ることが出来る。
この橋の下を流れるのは ご存知鴨川であるが高瀬川と一部分岐している。
分岐点南側から松原通付近まで夏になると納涼床が
みそそぎ川に設けられる。
京都の伝統的町衆文化である納涼床は江戸時代にまでさかのぼることができるが、かつては鴨川に設けられていたが 大正期の河川改修で設置先がみそそぎ川に変更された。
鴨川の大洪水の補修工事で川底は7メートル掘り下げられ、丸太町から五条までの西側にあった川の流れを残し運河とし「みそそぎ川」と名づけ、その間が現在の河原となっている。
鴨川は、平安時代より以前から、禊(みそぎ)の場所であった。祇園祭の「神輿洗いの神事」が鴨川で行われているのもその名残である。
=ネットから引用させていただきました=
坂本龍馬が近江屋で暗殺される数日前まで 二階の部屋に寝泊りしていたと言われる「酢屋」
幕末当時、高瀬舟の舟入場で 高瀬川ぞいには各藩の藩邸が建ち並び、伏見、大阪との連絡にも格好の地であり、高瀬川の木材の輸送権を独占して非常に繁盛していた「酢屋」の主人の酢屋嘉兵衛は龍馬の活動をよく理解し、かなりの支援をしたため、龍馬はここを海援隊京都本部にしたそうだ。
一尋とは・・・
元々は、大人が両手を一杯に広げた長さとして定義された身体尺である。
「ひろ」という名称は「ひろげる」と同根であり、
「尋」という漢字も「左」「右」「寸」を組み合わせたものである。右の口と左の工を持った両手で舞いながら神のあるところを求めて尋ねることである。
先日から 舞うことと神がよく出てくるが 元々は神をたずねる意味だった文字であるが 後に広い意味に使うようになった。
紐などの長さを測るときに、紐を両手で持ち、両手を一杯に広げるということを繰り返すことで、尋による長さを求めていたが、元々が人の体を元にしたものであるので人によってその長さは異なり、1尋を5尺(約1.515メートル)とすることもあるが 明治時代に1尋=6尺と定められ、1尺=約30.3cmと定めた。1尋は約1.818mということになる。が、中国では1尺=約33.3cmとか 1尋は1.828mとされているものもある。
この三条大橋の礎は5尋であるから 9メートル以上も、ということになるが 今の明石海峡大橋は主塔の高さは海面上298.3mのつり橋だから それを支えるには この比ではないのだろう。
比較する方が間違っているのか。